天保6年(1835)5月5日〜明治2年(1869)5月11日/34歳
- 武蔵国多摩郡石田村(東京都日野市)出身
- 天然理心流
- 歳三は石田村の豪農の末っ子として生まれた。母の体内にいる時に父を亡くし、5才の時に母を亡くしたため、年の離れた兄夫妻に育てられた。
- 10才の時と16才の時に、上野に奉公に出されたがいずれも長く続いてはいない。見かけは優しげで綺麗な少年だったから、呉服屋の店先に座らせておけば様になると思われていたのかも知れぬが、歳三は見かけとはうらはらに、男気のあるきかん気の少年だったと思われる。商人向きではないのだ。
- 近藤勇とは切っても切れぬ仲で、ずっと一緒だった。二人の仲の良さと信頼関係の絆の強さについては、多くの証言が残っている。新選組結成まもなく、勇が天狗になったと、ごく親しい人に一度だけ愚痴をこぼしたこともあったようだが、最後まで勇との絆は固かった。
- 新選組時代は、本来の優しい心を自分の中に閉じこめて、冷たい面を被り続けた。甘い顔をしていては新選組は成り立たない。近藤を檜舞台にあげ、幕府に忠義を尽くすため、心を鬼にして、仕事にも隊士にも厳しく当たった。
京都時代はみんなに恐れられ、孤独な人だったと思う。自分の心を押し殺して生きなければならなかった彼の苦しみと悲哀を、私は理解してあげたい。
新選組崩壊後は、彼もやっと本来の自分の姿に戻れ、多摩にいた頃の気さくな気持ちで人に接することが出来たようだ。兵士はみな、赤子が母を慕うように彼を慕ったという。
- 勇が処刑された後、歳三は幕府軍の幹部として北へ転戦して行く。最後は箱館五稜郭まで行き、徹底抗戦した。やがて、幕府軍の最後の砦五稜郭も降伏する気配が濃くなったとき、一人敵地に飛び込んで、腹部に銃弾を受け、戦死した。
- 「ここで降伏しては、地下の近藤に合わせる顔がない」と言っていたという。幕府軍の幹部の中で死んだのは。彼一人だった。
- 勇の死から約一年後のことである。
◆歳三あれこれ◆
- 家族は、父・土方義諄、母・恵津、長兄・為二郎(盲目のため、家督を継いではいない。23才年上の兄)、次兄・喜六(家督を継いだ。歳三より16才上)、三兄(夭逝・文化11年10月没)、長姉(夭逝・文政4年8月没)、次姉(夭逝・文政5年5月没)、四兄(夭逝・文化12年6月没)、三姉・周(16才で没)、五兄・大作(糟谷という医家に養子に行き、糟谷良循と名乗る)、四姉・のぶ(佐藤彦五郎に嫁ぐ。歳三はこの姉に一番懐いていた)、末っ子・歳三。
- 写真を見てもわかるように、歳三は大変な美男だった。当時の人間の証言でも「役者のような美男」「色の白い美男子」というのがいくつも記録として残っている。16の時の奉公で失敗したのも女性問題だった。京都でも数多くの女から恋文をもらっている。
- 歳三の好きな色は、赤。面紐の色も赤だった。
- 親戚の橋本家で漬けた沢庵が好物。
- 仲人をしたこともある(詳細は非公開事項)。
- 趣味は俳句。俳号は「豊玉」(ほうぎょく)
京都に行く前に41首の句を綴っていった。他に知られているのが、和歌8首、漢詩、俳句(川柳)数種。- 実家の土方家では、「石田散薬」という薬を作っていたが、歳三はそれを行商して歩いた。
- 江戸には許嫁がいたというし、京都では一女をもうけた間柄の女がいたという。(うー。なんという幸せな女だぁ!)赤子は生後間もなく死んだらしい。京都でも随分沢山の女性にもてたが、結局は独身のまま亡くなった。(『新選組事件簿』にも詳細あります)
- よく小説などで沖田と兄弟のように書かれているが、あれは司馬氏自身が語り残しておられるように、完全なる虚構である。歳三と沖田が、小説に書かれているように親しかったという事実は、一切ない。むしろ二人の関係はクールだったように思える。関連記事「沖田と歳三」
- 愛刀は、11代和泉守兼定二尺二寸八分(現存)。ただし、勇先生の手紙には「歳三の刀は和泉守兼定二尺八寸、脇差は堀川国広一尺九寸五分」とあるので寸違いの兼定を何振りが持っていたのかもしれない。また脇差だが、堀川国広はこの長さの刀は打っていないはずだと刀屋に聞いたことがある。他に、会津候からの拝領刀葵紋越前康継二尺三寸五分(仙台候拝領の水色の下緒を巻いた形で現存)。それと大和守秀国。中子に「幕府侍土方義豊戦刀、秋月種明懇望帯之、秋月君譲請高橋忠守帯之」と銘がある。
詳細は『新選組豆知識』にあります。
- 箱館では一人粗食に甘んじ、女を一切近づけなかった。(男色に絡む話はこちら)