慶応4年(1868) 無断引用・複製は固くお断りいたします。

日付新暦天気出来事
1. 3( 1.27) 鳥羽伏見の戦い勃発.新選組は伏見奉行所を本陣として戦闘。京橋口にても戦い戦死者を出す
1. 4( 1.28) 戦況、幕軍に不利.上鳥羽街道で激戦.新選組淀方面へ退却。淀、千両松において激戦、井上源三郎他多数戦死
1. 5( 1.29) 山崎烝ら重傷者多数出る。負傷者は大坂八軒家の京屋に入る
1. 6( 1.30) 橋本に布陣.脱走者も多数出て大坂八軒屋京屋忠兵衛方へ退陣。徳川慶喜、海路帰京のため、夜大坂城を出る
1. 7( 1.31) 新選組大坂城二の丸に入るも火災により京屋に移る
1. 8( 2. 1) 新選組小舟に乗って木津川を下る
1.10( 2. 3) 新選組富士山艦に乗り込み、兵庫沖に碇泊す(負傷者は富士山丸、歳三始め可動者は順動丸に乗ったともいう)
1.11( 2. 4) 兵庫沖を出帆、夜、紀州由良港に碇泊
1.13( 2. 6) 山崎烝、大坂八軒屋の京屋で死す(或いは、富士山艦に乗り込み、出航後間もなく死亡、とも)
1.14( 2. 7) 夕刻、横浜入港。島田魁を添人として戦傷者は上陸、医学所に入る
1.15( 2. 8) 新選組品川へ上陸、旅宿釜屋に戦塵を払うも近藤と沖田の二人は、神田和泉橋の医学所松本良順宅に直行療養す
1.18( 2.11) 佐藤彦五郎、粕谷良順、近藤勇と面談。歳三は25両の買い物
1.20( 2.13) 新選組屯所として、鍛治橋大名小路の元秋月右京亮種樹の屋敷を与えられる
1.22( 2.15) 歳三、戎屋にて35両の買い物
1.23( 2.16) 鍛治橋大名小路の酒井飛騨守役宅を新選組屯所に当てられる。歳三、5両の買い物
1.27( 2.20) 松本良順へ100両支払う
1.28( 2.21) 近藤、横浜へ出張
2. 7( 2.29) 近藤、銃創治療のため横浜の医学所に行く
2.10( 3. 3) 尾関泉、近藤を迎えに横浜へ行く
2.12( 3. 5) 近藤勇登城.上野東叡山に恭順する慶喜の警護を命ぜられる。15〜25日まで新選組半隊ずつ交替勤務に就く
2.25( 3.18) 慶喜の警護を終了。近藤、芝の金地院で養父周斎の墓参
2.26( 3.19) 沖田総司長姉ミツ一家庄内へ旅立つ
2.28( 3.21) 大石鍬次郎、甲州へ出張
2.28( 3.21) 新選組諸支払いをする。甲州出陣手当の支払い70人595両、沖田10両、近藤留守宅300両等
3. 1( 3.24) 甲州出陣.酒井飛騨守屋敷を出立.新選組、甲陽鎮撫隊を名乗る。近藤勇は若年寄格大久保剛(大和)、土方歳三は寄合席格内藤隼人となる。この日府中に泊る
3. 2( 3.25) 日野佐藤彦五郎方にて休息の後八王子に泊る。日野農兵隊22人甲府まで送る
3. 3( 3.26) 与瀬に泊る
3. 4( 3.27) 犬目泊りとなるが、西軍甲府城を接収
3. 5( 3.28) 甲陽鎮撫隊駒飼に布陣.援軍を求めて土方歳三江戸に下る(共一名を連れて行く)
3. 6( 3.29) 甲州柏尾で戦闘に及び敗走、大月に至る。土方、早駕篭2挺で日野を通過する
3. 8( 3.31) 援軍に失敗、歳三朝五ツ日野通過、甲州へ向かう
3. 9( 4. 1) 甲州柏尾で四散した鎮撫隊は杉並の玉野家に集った
3.10( 4. 2) 浅草今戸の慶養寺に屯集
3.11( 4. 3) 永倉、原田ら20名ばかり、靖兵隊を組織.近藤、土方と袂別する。この頃沖田総司はすでに千駄ケ谷の植木屋平五郎宅に移ったといわれる
3.13( 4. 5) 夜、近藤ら48人、五兵衛新田の金子邸に入る
3.20( 4.12) この頃五兵衛新田に屯集した鎮撫隊は新選組に復して隊伍を整える。勇、歳三、大石鍬次郎、安富才助、島田魁、中島登、市村鉄之助、他227人
4. 1( 4.23) 新選組227人(五兵新田の観音寺62名、滝二郎宅83名、新宅35名、金子邸47名)流山に移動する
4. 2( 4.24) 流山に着陣.本陣を長岡屋、平士ら分隊を称名院に置く
4. 3( 4.25) 西軍、流山を包囲する.近藤投降し越ケ谷の西軍本陣に連行される。近藤に付き添う者、野村利三郎と村上三郎.村上は途中より帰る。この夜、土方歳三江戸に潜入する
4. 4( 4.26) 土方歳三、勝海舟と面談.島田魁、軍用金を集めて流山から江戸に潜入して土方と合す。近藤は囚者駕篭にて板橋に送る
4. 5( 4.27) 土方の命により、相馬主計は松波権之丞差出しの封書を持って、板橋の近藤を尋ねるも、その場で捕らえられる。書は土方、勝、大久保一翁ら三人のものという
4. 8( 4.30) 近藤勇への審問が始まる
4.11( 5. 3) 江戸城明け渡し.土方歳三、島田魁ら6名の隊士と江戸を脱走して鴻ノ台(国府台)に至る
4.12( 5. 4) 江戸脱走の幕兵鴻ノ台に集結し、市川において軍議を開く。歩兵奉行の大鳥圭介が幕軍総督になる。幕軍は、前、中、後の三軍に分けて編成、新選組は前軍に属し、歳三と会津の秋月登之助が前軍参謀となり引率する。中後軍は大鳥が率いて宇都宮へ向けて出立。新選組は小金に宿陣す
4.13( 5. 5) 布施に宿す
4.14( 5. 6) 福田平馬、勝海舟に面談の上、近藤勇助命嘆願する
4.15( 5. 7) 新選組利根川を渡り水海道方面へ進む
4.16( 5. 8) 新選組宗道にて宿陣.永倉新八の靖兵隊は岩井において大鳥軍に合流、後軍に入る
4.17( 5. 9) 新選組下妻に入って、秋月登之助強談す.土方は下館に先登。下館藩に金子を受け、秋月隊と合流する
4.18( 5.10) 蓼沼に宿陣
4.19( 5.11) 新選組等前軍は宇都宮を攻撃して陥落、蓼沼へ戻って宿陣
4.20( 5.12) 全軍宇都宮に入城し、城内の米を市中に配す
4.22( 5.14) 幕軍、宇都宮より出兵し、安塚において戦闘、西軍は壬生城にあり
4.23( 5.15) 宇都宮城奪還される。土方歳三負傷、今市に下る
4.24( 5.16) 土方歳三、日光に詰める八王子千人同心の土方勇太郎を呼び、面談す。昼時、土方、秋月両人10人余りの護衛者をつけて会津に向かう
4.25( 5.17) 近藤勇板橋において斬に処せられる。三日間梟首
4.26( 5.18) 土方一行田島に至り、秋月と別れる。土方に付き添う者、島田魁、中島登、漢一郎、畠山二郎、沢忠助、松沢乙造の六人
4.28( 5.20) 勇五郎、勇の死体を掘る
4.29( 5.21) 龍源寺に勇を埋葬。土方、島田ら会津城下七日町清水屋に入り、唐津藩大野右仲と会見す。新選組先発組結集する。以後、歳三は療養生活に入る。新選組は斎藤が指揮をとる
閏 4. 5( 5.26) 会津新選組隊長山口次郎(斎藤一)、白河出陣に際し、松平容保に拝謁
4. 6( 5.27) 新選組、白河へ出立
4. 8( 5.29) 京都三条河原に近藤勇の首が晒される
4.20( 6.10) 新選組、白河城を攻略
4.  幕臣望月光蔵らと面談し、脱走軍加盟を求めるが拒絶され、癇癪を起こして枕を投げる(笑)
5.15( 7. 4) 上野戦争起こる。原田左之助彰義隊に加わり負傷
5.17( 7. 6) 原田左之助死亡(本所大久保主膳正屋敷(神保山城守屋敷?)にて)
5.27( 7.16) 島田魁負傷
5.30( 7.19) 沖田総司病死
6. 6( 7.25) 近藤勇の梟首を「中外新聞」が報道
6.15( 8. 3) 土方歳三、会津若松において輪王寺宮に属従する覚王院義観と談合する
7. 1( 8.18) この頃、土方歳三は福良の会津陣営に出張、新選組は土方の命によって長沼を経て町守屋に至り休陣す
8. 1( 9.16) 土方歳三、秋月登之助、新選組、伝習隊第一大隊、回天隊を率いて仙台口に向かうも 三春、二本松両藩の形勢悪く出兵の中止を決し、引き返して、三代、中地、舟津に休陣
8.18(10. 3) 新選組ら、猪苗代に向かう
8.19(10. 4) 母成峠に移る。この日品川沖の榎本艦隊脱走
8.20(10. 5) 二本松で戦闘、幕軍敗走して母成に集結
8.21(10. 6) 母成での激戦で死傷者を多数出す。新選組は猪苗代に引き上げるも行方不明者続出す
8.22(10. 7) 新選組は天寧寺に宿営、この時近藤勇の墓碑建立と伝えられる
8.23(10. 8) 土方歳三、庄内に援兵を求めて大塩に至る。松平容保、会津若松城下に敗走
9. 2(10.17) 仙台国分町の「外人屋」という外人用の宿に、榎本、ブリュネらと宿泊(9/1?)
9. 3(10.18) 榎本武揚仙台において軍議を開き、土方歳三も出席す
9. 8(10.23) 【明治元年(1868)】 改元して明治となる
9. 9(10.24) 塩川付近に滞在の幕兵、福島、仙台に向かう。新選組も歩調を合わせる
9.12(10.27) 榎本、土方ら仙台に登城し、恭順派の執政遠藤文七郎、大条孫三郎に面談するも談判決裂す
9.下  仙台藩、会津藩(22日)、庄内藩、相次いで降伏
10.12(11.25) 新選組は大江艦に乗船して折の浜の出帆蝦夷に向け北上す
10.13(11.26) 南部宮古湾の鍬ケ崎に投錨
10.18(12. 1) 宮古を発す
10.21(12. 4) 蝦夷鷲ノ木に到着
10.22(12. 5) 新選組は大鳥軍に属し、鷲ノ木から箱館に向かう。歳三は額兵隊、陸軍隊を率いて鷲ノ木から川汲を経て箱館へ向かう。歳三には島田ら新選組精鋭の者が護衛
10.24(12. 7) 土方軍、川汲にて小戦し、松前軍蹴散らす
10.26(12. 9) 榎本軍、五稜郭を無血占領する。土方軍も夕刻に入城するも、新選組、遊撃隊、工兵隊、七飯より大野鎮撫に廻る
10.27(12.10) 榎本軍、松前攻撃の総督として土方歳三を任命する
10.28(12.11) 土方先鋒軍茂辺地に宿陣
10.30(12.13) 新選組、市中取締りを命ぜられる。称名寺を本陣とする
11. 1(12.14) 土方前軍萩砂村に陣を取り中軍の知内村に陣するところ、夜半に至り松前兵の奇襲あるも撃破する
11. 2(12.15) 土方前軍福島に向かって進軍、途中市の渡で戦闘するも敵陣を破り、先鋒一部敵を追い落として福島に至る
11. 3(12.16) 土方前軍福島占拠
11. 4(12.17) 土方軍松前に向かって進軍し、追撃し、荒谷に至る
11. 5(12.18) 土方前中軍松前城の攻撃を開始する。松前兵脱走、土方軍半隊は城下に宿陣、残り半隊は荒谷に宿陣す
11.11(12.24) 土方軍江差に向かう
11.12(12.25) 土方前軍江良に至る
11.13(12.26) 土方前軍原に至り、後軍松前を出立す
11.14(12.27) 土方前軍大滝峠にて戦闘
11.15(12.28) 土方軍塩吹村に進み江差占拠の報を受ける。土方前軍この日のうちに江差に入る。夜、旗艦開陽が座礁
11.16(12.29) 土方全軍江差に到着
11.18(12.31) 土方軍熊石に向かう
11.22( 1. 4) 土方軍熊石に入る
11.25( 1. 7) 土方歳三五稜郭に凱旋す
12.15( 1.27) 榎本軍蝦夷平定を祝し101発の祝砲を放ち、各国領事を招いて祝宴を催した。仕官以上のの投票により榎本新政府の役員を選出する。総裁に榎本武揚、副総裁松平太郎、海軍奉行荒井郁之助、陸軍奉行大鳥圭介、陸軍奉行並土方歳三になる
12.29  酒井孫八郎を訪れて面談

次の年(明治2年(1869))へ進む
【新選組年譜】に戻る