文久3年江戸から京都まで、試衛館一党が浪士隊として歩いた道程。
日にち | 歩いた距離 | 宿泊地 | 出来事
二月八日 | 四里三十二丁(19.2k) | 大宮宿 |
| 二月九日 | 四里二十四丁(18.3k) | 鴻巣宿 |
| 二月十日 | 九里二十二丁(37.8k) | 本庄宿 |
| 二月十一日 | 十里五丁(39.8k) | 松井田宿 | この日、浪士間に回状
| 二月十二日 | 七里二十一丁(29.8k) | 追分宿 | 碓氷峠を越えて信州へ
| 二月十三日 | 八里四丁(31.9k) | 長久保宿 |
| 二月十四日 | 七里十八丁(29.5k) | 下諏訪宿 |
| 二月十五日 | 九里十二丁(36.7k) | 奈良井宿 | 回状で「火の用心」が言い渡される
| 二月十六日 | 十里二十二丁(41.7k) | 須原宿 |
| 二月十七日 | 九里三十五丁(39.2k) | 中津川宿 | 信州から美濃へ
| 二月十八日 | 十二里五丁(47.7k) | 伏見宿 |
| 二月十九日 | 八里八丁(32.3k) | 加納宿 |
| 二月二十日 | 九里二十六丁(38.2k) | 柏原宿 | 美濃から近江へ
| 二月二十一日 | 九里十八丁(37.3k) | 武佐宿 | 道中の無事を祝って酒がでた
| 二月二十二日 | 八里二十四丁(34.1k) | 大津宿 |
| 二月二十三日 | 三里(12.4k) | 京都着 |
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新選組屯所にしていた八木家の女の子が、亡くなりました。
芹沢先生と勇先生は二人で並んで座って受付をやったそうです。
芹沢先生ってのは、乱暴者で大変な人だったけれど、酒が入っていない時ってのは、結構愛すべき人なんですよね。私は好きですよ。
けどね、酒が入ってない時って、殆どなかったそうで(爆)
いっつも、赤い顔してたみたい。
一方勇先生の方は全く逆で、酒を飲んで赤い顔したり、酔ったり乱暴したり等の、だらしのないことは決してしなかったそうです。
厳つい顔だったけど、笑うとエクボができて、女性にはたまらなかったみたいっすよ、結構モテたらしい(^^)
で、芹沢先生と勇先生。
ま、そんな二人が、葬式の受け付けをしたんですな。
これだけでも微笑ましいのに、受付がヒマな時、いたずら描き、それも絵を描いていたというんです。
笑っちゃいけないところで、肘でつっ突き合いながら、こそこそと何かを描いては笑いを噛み殺していたのでしょうか。可愛いなあ(笑)
ちなみに、その絵はだいぶ後まで残っていたそうですが、いつのまにか襖の下張りかなんかに使ってしまって、もうないということです。
惜しいぞーーーっ!
新選組幹部の女達との関わりについて。
勇先生。
彼は江戸にいた頃に妻を迎えている。そのエピソードについては、『江戸・試衛館』のところをご覧ください。
京都では結構女を囲っていた。姉妹に手をつけてたりする。
女のところに通うときは、頭巾で顔を覆っていたという。
勇先生と歳三と佐々木さん(見廻組)と、連れだってよく遊んだとか。
お相手は、勇先生が深雪太夫、歳三が東雲太夫、佐々木さんが浪路太夫。
勇先生は顔は無骨だったけど、とても母性本能をくすぐるような人で、女には凄くモテたらしい。歳三と同じくらいモテたそうです。
結局勇先生は京都で、数人の女に何人か子供を生ませているんだけど、そのウチの女の子が後年、西郷従道や伊藤博文、井上馨などに贔屓された人気芸者になったとか。
で、我が歳三。
彼と女のことは言いたくないのでパス(笑)
では卑怯なので、軽く触れよう。
江戸にいた頃。
確証はないのだけれど、吉原火炎玉屋の黛太夫が馴染み。美人と言うより凄みのある女だったとか。
また、三味線屋の娘・琴さんは、(取りあえず(笑))許嫁でした。
京都時代。彼の書いた手紙にはこう残っています。
「島原では花君太夫、他に天神、一元。祇園には芸妓が3人ほど。北野には君菊、小楽。新町には若鶴太夫、他2〜3人。北之新地には沢山いすぎて書ききれない」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(-_-)
で、君鶴(上の手紙の中の君菊と言われる)との間には女の子が生まれたという話がある。でもその子は幼いウチに死んでしまった。
君鶴は歳三と別れたあと、他の男の元へ嫁いで、早死にしたらしい。
なんちゅう馬鹿な女だ。あたしだったら絶対他の男のとこになんか行かないぞ(行けないという説もある(^^;))
土方歳三ほどの男の愛人だったという誇りはお前にはないのか!馬鹿やろー。
子供が生まれたっちゅうことは、歳三と×××××(今更伏せ字かい)だろうがっ!
そういうありがたい身体を、何故死ぬまで大切に出来ないんだ!
食って行けなくなったのなら、ありがたいお身体のまま死ねばよいのだ。
他の男に差し出すとは不届き千万!
なんちゅうもったいねぇことをするんだ!歳三を汚す気か!!
だから早死にするんだ。おひおひ(^^;)
ちょっとキレてきたので、歳三編はやめます。
次、沖田。
彼は、松本先生(良順。将軍侍医。新選組の担当医でもあった)によると「清童(童貞)」。
おいおいおいおいおい。これは信じられないぞ??
沖田は歳三達と一緒に、妓買ってるんだぜ。
★文久3年(1863)4月22日★
《歳三、井上松五郎、源三郎、沖田と共に、新町の廓九軒町吉田屋にて天神(遊女)を買う。》
この日記は一緒に妓を買った松五郎が書いたものなんだぞ。
沖田には、歳三と同じように子供もいたという説すらあるんだぜ。
沖田は試衛館にいたころ、そこにいたお手伝いの娘に(これが結構気の強い娘だったらしい)「好きです。結婚してください」と言われたが、「私はまだ修行中の身ですから」と断った。したら女は誇りを傷つけられた、と短刀で喉を刺して自害しようとした。急所を外れていたので一命はとりとめ、後、勇先生の介添えで他家に嫁いでいったそうな。
隅に置けぬのう、沖田君。
京都時代の沖田の恋人はいろいろ言われていますな。医者の娘なんてのはよく言われていること。
勇先生が無理矢理別れさせたとのことで、「あの陽気な沖田先生も、あの娘のこととなると涙をこぼして語っていたものです」なんて話も残っている。
かと言えば、上にも書いたが、どこぞの後家(だったと思う)との間に娘がいた、なんて話もあったし、油小路の旅館里茂の娘との仲も有名ですね。どれが本当かはわかりませんが。
そいから、左之は現地(京都)で嫁をもらってる。おまさという人で、新選組幹部の女にしては珍しく、気質(カタギ)のひと。
新八の嫁はお約束通り芸者上がり(これが普通)。どっちも子供もいた。
私の烝にも、嫁がいたらしいし……(泣)信じたくないよぅ(泣)
山南さんは、明里という妓と深い仲だったというが、この明里、実在かどうか疑わしい。
ちなみに、慶応三年の京坂の遊女の名簿を見ても、「明里」という名はどこにもない。
もっとも、山南さんが亡くなったあと、誰かに落籍れたのかもしれないけれど。
斎藤さんは、後、時尾さんと結婚しましたが、京都時代の馴染みは、桔梗屋の相生太夫。
伊東甲子太郎も、うめという夫人がいたが離婚(理由は、隊士人名辞典の伊東の項を見てね)。
京都での敵娼は、輪違屋の花香太夫。
この頃の女達は、大変だったろうな。愛する人は明日をもしれぬ身。それだけに、逢えるときは全身全霊をかけて、尽くしたんだろう。
殆どが哀しい別れに終わってしまってはいるけれど、私はこの頃の女達がちょっと羨ましかったりするのです。
京都や将軍(幕府)を守るため、浪人達が約230名ほど集められて、京都にぞろぞろと行くことになった。
首脳は清河八郎。この男、結局は幕府を騙したことになる。将軍を守るなんて名目は嘘だったのね。
で、京都に着いてから清河と意見が分かれた、この集団の中の13人(一説には24人)が、後の新選組になるわけ。
で、この集団、2月8日に江戸を立ちます。
後の新選組の幹部、近藤勇や土方歳三、沖田総司、永倉新八、原田左之助なんかも勿論この中にいたわけです。勇先生の道場「試衛館」の人間としてね。勇先生は、天然理心流という剣の流派の4代目宗家でした。
ちなみにこの中には斎藤さんはいません。京都に着いてから、一緒になったんですね。
その勇先生が、出立にあたって「先番宿割り」の役を命じられます。
要は、みんなより一足先に行って、宿の手配や、部屋割りをする。いわゆる卑役なわけ。
我らが近藤さんになんちゅう役を!と、試衛館の連中は怒ったんだけど、勇先生本人がこれを引き受けちゃった。根が真面目で人がいいからねぇ・・・・・。
実は清河が、試衛館の連中が只者ではないのを恐れて、親玉の勇先生を、みんなと引き離した、とする説が有力。
「あの連中(試衛館の面々のこと)、道中何かあったら斬ってしまえ」と言っていたそうだから。
で、冒頭の焚火の話。
2日目の本庄宿。
ここでなんと、勇先生が芹沢鴨の部屋を取り忘れる、という事件が起きた。
芹沢鴨といえば乱暴者で有名。鹿島神社の太鼓をうるさいと鉄扇で打ち破ったり、気に入らない部下を3人並べて座らせておいて、刀を一薙ぎ。
一度で3人の首を落としたり、なんてことをやった人。
この人が、『自分の泊まる所がないなら、外で寝ようじゃないか。ただし寒いから焚火をするぞ』と、大焚火を始めてしまった。
火の粉が宿場町の家々の屋根にふりかかって大騒ぎになったのね。
この時、勇先生は地面に座り、手をついて謝った、というエピソ−ドがある。この勇先生の潔い態度は、かえって「近藤は大物」というイメ−ジを皆に与えたらしい。
この件、清河の差し金かなあ、と思って見ると面白い。(私は、清河には「やっかみ」があったと推測しているので……)
だって、勇先生は、一人で宿割りをやっていたわけじゃないのよ。もう一人手伝ってた男がいた。なのに、芹沢に謝ったのは勇先生だけで、何故かその男は謝っていない。そんなエピソードはない。
実は、この池田という男、本当に清河の腹心だったのよ。
ただね。
あまりにも有名なこの事件、本当にあったことなのか証拠はない。
けど、翌11日、浪士達に書き付けが(回状、回覧ですな)回っている。
内容はわからない。で、四日後の15日、今度は「火の用心」の回状が、出されている。この辺が、事件の根拠と言えば根拠。