元治2年(1865) 無断引用・複製は固くお断りいたします。

日付新暦天気出来事
1.  朝廷より新選組へ蛤御門の戦いでの戦功に感状賜る
1. 8( 2. 3) 大坂駐屯の谷万太郎、谷三十郎、正木直太郎、高野十郎ら石蔵屋を襲撃、土佐の大利鼎吉を斬殺
1.10( 2. 5) 谷万太郎、石蔵屋の襲撃事件の報告書を提出
2.  隊士の激増により屯所の移設を考慮、西本願寺と折衝を始めるも、山南は反対
2. 9( 3. 6) 歳三、彦五郎宛手紙を記す
2.23( 3.20) 山南脱走するも大津で捕らえられ切腹。山崎烝、神崎一二三の手で光縁寺に埋葬される
3. 1( 3.27) 歳三、彦五郎宛手紙を記す
3. 4( 3.30) 大谷良輔切腹
3.10 六条西本願寺北集会所へ屯所移転、八木家に挨拶
3.21  沖田、日野佐藤家に土方東下、山南死亡を報告
3.25頃  歳三、隊士募集のため、伊東、斎藤と江戸へ下る
4. 7( 5. 1) 【慶応元年(1865)】 この日改元して慶応となる
4.15( 5. 9) 佐藤家で甥の源之助を新選組にスカウト、姉のぶの逆鱗にふれ断念(17日?)
4.18( 5.12) 彦五郎・源之助と共に江戸へ戻る。この日、彦五郎方で、鹿之助と夜通し話をする
4.27( 5.21) 歳三、新入隊士53人を従えて江戸を出立
4.末  職制の編成替えで、隊を10組に分ける
5. 9( 6. 2) 歳三一行、草津本陣に宿泊(田中本陣大福帳より)
5.10( 6. 3) 歳三、新入隊士と藤堂平助を伴い京都に帰る
5.26( 6.19) 大坂の儒者藤井藍田を捕縛、大坂の万福寺へ
閏 5.12( 7. 4) 藤井藍田、大坂万福寺の獄で死去
5.13( 7. 5) 将軍家茂を膳所において妨害の計画を探知
5.14( 7. 6) 佐野七五三之助ら隊士、膳所大津に出張。河瀬太宰宅を捜査、妻こう自殺を図る
5.21( 7.13) 出動、一人捕縛するも伊東の助命嘆願により釈放する
5.22( 7.14) 家茂入洛に当たり新選組は三条蹴上に出迎え、二条城まで警護す。近藤、家茂に同行の松本良順を木屋町の南部精一郎宅に訪問(良順が屯所を訪れ、隊士の衛生状態を憂いたため、急遽病室と浴場を整備したと言われる)(蘭疇より)
5.25( 7.17) 将軍の下坂に従い、伏見街道藤ノ森まで護衛する
6.21( 8.12) 施山多喜人、石川三郎両人、商家の婦女を犯して切腹
7. 4( 8.24) 沖田総司、宮川音五郎宛に宮川信吉の無事伝達の書翰認める
7.  伊東甲子太郎、篠原泰之進、富山弥兵衛、茨木司、粂部正親ら、奈良に潜伏する浪士探索のため出張。長州浪士石津茂一を捕縛するも、伊東の嘆願によって客分扱いとして留置
7.18( 9. 7) 新選組脱走の上田末次、朝名を騙り名古屋で金策の報を受け東海道筋に伊東、中山道に島田が探索に当たる
7.22( 9.11) 井上松五郎に手紙を記す
7.25( 9.14) 佐野牧太、隊規違背につき断首
8. 1( 9.20) 朝名を騙った上田の行方について、安藤領の者が匿ったということで、安藤藩詫び状を入れる
8. 8( 9.27) 武田観柳斉ら、金品強奪の薩摩浪士捕縛のため蹴上へ出動
9. 1(10.20) 松原忠司自刃し光縁寺に埋葬される
11. 4(12.21) 近藤勇ら長州訊問使永井主水正に随行して広島へ出張.近藤は名を内蔵助、武田観柳斉は近習、伊東は中小姓、尾形俊太郎は徒士として京を出立。歳三局長代理。
11.16( 1. 2) 永井、近藤の一行広島に到着
12.12( 1.28) 歳三、近藤らの広島出張を日野井上へ報ず。桜井勇之進を切腹させる
12.16  永井主水正広島を出立帰路に就くも、近藤らは残留して岩国辺に足を延ばして、長州の探索に赴く

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