慶応2年(1866) 無断引用・複製は固くお断りいたします。

日付新暦天気出来事
1.21( 3. 7) 薩長同盟成立
1.26( 3.12) 近藤ら永井らにつき再び広島へ行くことが決定
1.28( 3.14) 近藤芸州再出張.伊東甲子太郎、尾形俊太郎、篠原泰之進の4人、永井らに先立って広島へ出張.彼らの影となって、山崎烝、吉村貫一郎も探索方として広島へ出張す。歳三再び局長代理
2. 3( 3.19) 近藤一行広島に入る
2. 5( 3.21) 大石鍬次郎、芸藩某と口論の末斬殺、時同じくして鍬次郎弟造酒蔵、祇園において今井祐二郎に殺害される
2.12( 3.28) 勘定方河合耆三郎、斬に処す
2.18( 4. 3) 小川信太郎切腹
3.12  夜、近藤帰京(歳三の手紙・先生過12日夜、御帰京被遊・・・)
3.27( 5.11) 伊東、篠原、広島出張から帰る
3.29( 5.13) 宮川音五郎・粂次郎兄弟と近藤つねに手紙を記す
4. 1( 5.15) 谷三十郎、祇園石段下において殺害される
6.  柴田彦三郎、脱走
6.15( 7.26) 柴田の脱走を追って、内海次郎、近藤芳助、松本喜次郎、三井丑之助、出石に向かう
6.19( 7.30) 出石藩の役人、柴田彦三郎を捕らえて、内海ら新選組の追ってに引き渡す
6.23( 8. 3) 柴田彦三郎切腹
6.末  広島出張中の山崎、吉村の両人から小瀬川の戦い等についての報告書届く
7.20( 8.29) 14代将軍家茂逝去
7.25( 9. 3) 幕府から新選組、見廻組に対し、警備地域の割付が達せられる
8.29(10. 7) 土佐中井庄五郎ら三条の制札を鴨川に投げ込む
9.12(10.20) 三条大橋制札事件に原田左之助、新井忠雄らが出動、土佐藩士八名と乱闘、土佐の藤崎吉五郎を斬殺、宮川助五郎を捕縛
9.13(10.21) 安藤鎌次、重傷を負って自刃
9.14(10.22) 見廻組大沢源次郎謀反を図り、一橋家臣渋沢栄一と共に歳三ら4人捕縛に向かう
9.15(10.23) 伊東甲子太郎、篠原泰之進、名古屋へ出張
9.19(10.27) 伊東、篠原、名古屋着.去る12日の三条制札事件の和解のために土佐藩から、近藤、土方、吉村貫一郎、鈴木三樹三郎が祇園に招かれる
9.25(11 .2) 伊東、篠原、名古屋より戻る
9.26(11. 3) 醒ケ井木津屋橋の近藤妾宅(私邸)で、伊東、篠原と時局について激論を交わす
9.27(11. 4) 前日に引き続き、伊東、近藤激論す
9.28(11. 5) 武田観柳斎、この日に斬られた、とも(たぶん違う)
10. 7(11.13) 市橋鍋吉没
12. 5( 1.10) 一橋慶喜、一五代将軍となる
12.15( 1.20) 朝彦親王、中村左馬を遣いとして新選組へ銀20枚下賜
12.20( 1.25) 三条制札事件の恩賞下る
12.25( 1.30) 孝明天皇崩御す(29日辰の刻と発表される)
  川嶋勝司、酒井兵庫、浅野薫ら日付不祥ながら局の手で斬る

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