日付 | 新暦 | 天気 | 出来事 |
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1. 1 | ( 2. 5) | 伊東甲子太郎ら永倉新八、斎藤一らと島原に居続ける | |
1. 4 | ( 2. 8) | 島原角屋より帰隊した永倉らに激怒、謹慎を申し付ける | |
1. 7 | ( 2.11) | 沖田総司、永倉新八、斎藤一ら四条大橋で、土佐の中井庄五郎や片岡源馬と衝突す | |
1. 9 | ( 2.13) | 明治天皇即位 | |
1.10 | ( 2.14) | 田内知士道不覚悟により切腹 | |
1.18 | ( 2.22) | 伊東甲子太郎、新井忠雄九州遊説の旅に出る | |
2. 2 | ( 3. 7) | 伊東、太宰府で中岡慎太郎(土佐)に会う | |
2. 4 | ( 3. 9) | 伊東、真木外記に面談、新選組分離を語る | |
3.10 | ( 4.14) | 伊東、鈴木、篠原ら山陸奉行戸田大和守忠至に属して、御陵衛士を拝命 | |
3.12 | ( 4.16) | 甲子太郎ら九州遊説より帰る | |
3.13 | ( 4.17) | 伊東ら近藤と分離の談合を持つ | |
3.16 | ( 4.20) | 近藤と共に伊東と分離受諾の酒宴を開く | |
3.20 | ( 4.24) | 伊東、鈴木、篠原、加納、新井、毛内、阿部、服部、藤堂、富山、橋本、内海、中西、佐原、斎藤、清原、江田ら新選組屯所を出て三条城安寺に移る | |
3.21 | ( 4.25) | 伊東ら御陵衛士たちは宿舎を五条東詰善立寺に移す | |
4.14 | ( 5.17) | 剣術師範田中寅三勤王思想激しく、脱走 | |
4.15 | ( 5.18) | 田中寅蔵、寺町本満寺に潜伏中を発見され屯所に連行、切腹 | |
4.19 | ( 5.22) | 山崎烝、中山忠能を訪問 | |
4.26 | ( 5.29) | 沖田氏縁者光縁寺に埋葬する | |
4.29 | ( 6. 1) | 矢口健一郎没 | |
5.11 | ( 6.13) | 新井忠雄、太宰府に到り真木外記に会い、新選組分離を報ずる | |
5.24 | ( 6.26) | 山崎、尾形、吉村と共に近藤の建白書を持参し、柳原前光、正親町三条実愛を訪れる | |
6. 8 | ( 7. 9) | 伊東ら高台寺塔頭月真院に移る | |
6.10 | ( 7.11) | 近藤、土方外沖田ら見廻組6名、吉村貫一郎ら見廻組並8名、島田魁ら平士見廻組並御雇77名、岩崎一郎ら12名の合計105名が幕府直参となる(見廻組肝煎の格式) | |
6.12 | ( 7.13) | 茨木司、佐野七五三助、中村五郎、富川十郎外6名、幕府召し抱えに反対、月真院の伊東に相談する | |
6.13 | ( 7.14) | 茨木司ら新選組離隊の嘆願書を京都守護職へ提出。近藤、土方ら守護職邸に赴き説論するも自説を曲げず反対 | |
6.14 | ( 7.15) | 前日に引き続き京都守護職邸で近藤ら説論するも効奏せず.茨木、佐野、中村、富川を殺害、他の6名を追放す | |
6.15 | ( 7.16) | 不動堂村屯所へ移転 | |
6.22 | ( 7.23) | 武田観柳斉、竹田街道銭取橋で、斎藤一、篠原泰之進に斬られる. この日、近藤、親藩会議に出席、四藩の建白書(5.26に薩摩、土佐、越前、宇和島の四候によって出された、慶喜政策を批判したもの)を批判する |
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6.24 | ( 7.25) | 土方歳三、山崎烝、尾形俊太郎、吉村貫一郎ら柳原前光、正親町三条実愛の両人を再び訪れ、近藤勇の四藩批判の建白書の支持を願うと共に公武合体の陳請をする | |
6.27 | ( 7.28) | 武田観柳斉と同調の僧善応、醒ケ井松原下ルで殺害される | |
7.27 | ( 8.26) | 伊東、柳馬場の中岡慎太郎を訪ねる.この日土佐陸援隊誕生 | |
9.20 | (10.17) | 近藤勇、永井尚志の紹介にて土佐の後藤象次郎と会見。その後、後藤再会の約を果たせないこと2〜3度。この日、尾方長栄、藤井少進らを捕縛し、山崎と共に調べる | |
9. | 歳三、大石鍬次郎、井上を従えて江戸下りをする | ||
10. 1 | (10.27) | 後藤、近藤との再会を果たせず.大政奉還の建白で多忙との詫び状届く | |
10. 5 | (10.31) | 勇、大政奉還建白書の写しを一覧したい旨の書翰を後藤に送る | |
10. 7 | (11. 2) | 土佐陸援隊に潜入した村山謙吉から、10.15二条城へ薩兵、所司代邸へは陸援隊と十津川郷士、新選組屯所には他の浪士たちが襲撃するとの諜報をもたらす | |
10. 8 | (11. 3) | 近藤勇、村山諜報を松平容保へ報する。歳三、日野の佐藤家を訪問 | |
10. 9 | (11. 4) | 松平容保、近藤に対し、板倉勝静と永井尚志の身辺警護を厳命する | |
10.14 | (11. 9) | 武家伝奏を通じて将軍慶喜大政奉還の上表を差し出す。長州に倒幕の密勅下る | |
10.15 | (11.10) | 朝廷大政奉還を許可される | |
10.20 | (11.15) | 江戸の歳三、大政奉還の報を受ける | |
10.21 | (11.16) | 歳三、二十騎町の近藤家に集合し、池田七三郎(稗田利八)ら新入隊士を引率の上江戸出立.品川の釜屋で昼食をとり、上洛の途に就く | |
10.28 | (11.23) | 近藤勇養父周斎、四谷舟板横町の隠居所において死去 | |
11. 1 | (11.26) | 上洛途上、彦五郎宛に手紙を記す | |
11. 3 | (11.28) | 歳三一行、初雪の京都に帰る。隊士20人が大津まで出迎え | |
11.10 | (12. 5) | 月真院の斎藤一、近藤の殺害計画を報じ、新選組に復帰 | |
11.15 | (12.10) | 土佐海援隊隊長才谷梅太郎こと坂本龍馬並びに土佐陸援隊隊長横山勘蔵こと中岡慎太郎(当時、石川清之助)、河原町蛸薬師の近江屋遭難。坂本討死 | |
11.16 | (12.11) | 9月頃、土佐陸援隊に潜入させた、村山捕縛.土佐河原町藩邸に留置される | |
11.17 | (12.12) | 村山謙吉詰問される。中岡慎太郎没す | |
11.18 | (12.13) | 伊東甲子太郎油小路木津屋橋で襲撃に遭い討死。遺体を引き取りにきた七人のうち、藤堂、服部、毛内の三人を待ち受けていた新選組で斬り、他の四人は逃走 | |
11.19 | (12.14) | 会津藩より伊東ら四人の葬料として20両下る。この頃、龍馬殺しは新選組と唱えられる | |
11.22 | (12.17) | 勇、永井に呼び出されて龍馬殺しの件で糾問される | |
12. 2 | 歳三、剣術の篭手を購入 | ||
12. 7 | ( 1. 1) | 土佐海援隊の陸奥陽之助、岩村精一郎ら16人、油小路花屋町の天満屋に投宿する紀州藩三浦休太郎を襲撃、三浦を警護する新選組と乱闘 | |
12. 8 | ( 1. 2) | 歳三鴻池善右衛門・加嶋屋作兵衛ら十軒より4000両を借用し、証文に署名捺印する | |
12. 9 | ( 1. 3) | 龍馬殺害の件以来、油小路のこともあり、新選組廃止の声多く、新選組は新遊撃隊となる。王政復古の大号令発せられる | |
12.12 | ( 1. 6) | 新選組二条城に詰めるも水戸藩本国寺組と争いを起こす。この夜、新遊撃隊の名を返上して旧名通リ新選組を通す | |
12.13 | ( 1. 7) | 天満屋騒動で討死した勇の従弟宮川信吉に対し、紀州藩より弔慰金42両賜る | |
12.14 | ( 1. 8) | 永井尚志に従って下坂、北野天満宮に着陣す | |
12.16 | ( 1.10) | 伏見鎮撫を命ぜられ、伏見奉行所に移る。小林啓之助薩摩の間者として絞殺する | |
12.18 | ( 1.12) | 朝、阿部十郎、佐原太郎、内海次郎の三人、近藤の妾宅に沖田総司を襲撃するも、伏見に移った後で目的達せず。夕刻、二条城へ軍議に出掛けての帰途、伏見街道墨染辺で阿部、篠原らに、近藤勇要撃される。近藤は馬上右肩に銃弾を受けて逃走、同行の井上新左衛門、芳助両人討死する | |
12.20 | ( 1.14) | 近藤勇並びに沖田総司両人、大坂奉行屋敷にて療養のために下坂す。会津藩より、近藤見舞金として20両受ける。歳三局長代理 | |
12.29 | ( 1.23) | 小幡三郎、薩摩藩邸に潜入 | |
12.30 | ( 1.24) | 尾張藩士荒川甚作、中村修、伏見奉行所を訪れ、歳三に退去を求める |