文久4年(1864) 無断引用・複製は固くお断りいたします。

日付新暦天気出来事
1. 2( 2. 9) 家茂再上京、警護のため下坂
1. 6( 2.13) 家茂天保山沖に着く
1. 8( 2.15) 大坂城に入る将軍家茂を大坂で迎え天満橋まで警護
1.10( 2.17) 平忠右衛門・平作兵衛宛に手紙を書く
1.14( 2.21) 将軍警護先陣として伏見着、伏見守護にあたる
1.15( 2.22) 家茂を護衛し入京、壬生に帰陣する
2. 2  沖田、井上と共に、壬生を訪れた富沢政恕(多摩連光寺村の名主)と面談、酒宴
2. 9  沖田、井上と共に富沢の宿を訪ねるが不在
2.20( 3.27) 【元治元年(1864)】 この日改元して元治となる
2.  この頃、勇、容保に薦められ温泉療養(有馬あたりか? 7〜8日間程)
3. 3( 4. 8) 京都所司代稲葉長門守正邦より、新選組は従前通り松平肥後守支配との達しを受ける。この日、井上と共に富沢を訪ね、清水寺に参拝してから祇園藤屋で酒宴を開く
3. 5( 4.10) 近藤、沖田、藤堂、井上と共に富沢を誘い、島原の木津屋で酒宴
3.11( 4.16) 近藤、沖田、藤堂、井上、武田と共に富沢を誘い、花見の宴
4. 6( 5.11) 岡山に潜入していた新選組の密偵松山幾之助、岡元太郎ら四人に斬殺され、一本松の御成橋に梟首される
4.11( 5.16) 富沢の帰府に先立ち、近藤、沖田、井上らと送別会を開く
4.12( 5.17) 彦五郎宛の鉢金添状、彦五郎、土方為三郎宛に手紙を記す>/TD>
4.13( 5.18) 前日の手紙と、8.18の政変時等に着用した鉢金、日記帳などを日野佐藤家宛に富沢に託し、井上と共に出立を見送る
4.26( 5.31) 京都見廻組を結成す
5. 3( 6. 6) 家茂の上洛に公武合体の実現を期待したが、見通しのないまま家茂の江戸引き上げで、勇は新選組を代表して建白書を提出、新選組の進退をも伺う
5. 7( 6.10) 家茂下坂のため道中警護、数日大坂に滞在
5.14( 6.17) 見廻組から会津藩を通して欠員補充のため新選組隊士の参加を希望してくる
5.16( 6.19) 家茂帰東、新選組帰陣す
5.20( 6.23) 沖田、原田、永倉、井上、大坂西町奉行所与力内山彦次郎を大坂天満橋で殺害?(新選組の仕業と伝えられるも土佐中島作太郎らの所業か?)。この夜、近藤勇京都において小島鹿之助と中島三郎兵衛宛二通の書簡を認める
5.  この頃、局中男色流行
6. 1( 7. 4) 肥後宮部鼎蔵の僕忠蔵、南禅寺塔頭天授庵の肥後宿舎に入るところを新選組に捕らえられ南禅寺の山門に晒される。山崎烝、島田魁、川島勝司、浅野藤太郎ら探索方奔走
6. 5( 7. 8) 四条西木屋町の枡屋喜右衛門方を捜査連行、この夜密議が行われることを古高俊太郎から拷問により探知、池田屋事件
6. 6( 7. 9) 近隣の探索や死傷等の確認の後、昼頃壬生屯所に凱旋
6. 7( 7.10) 去る5.14、見廻組から要請のあった新選組隊士の譲渡移籍を断る
6. 8( 7.11) 池田屋騒動の報復で長州浪士の切斬り込みありとの風聞しきりで、屯所の表裏警備に万全を配す.近藤、池田屋騒動の顛末を郷里へ報ず
6. 9( 7.12) 会津藩より20名余りの手勢応援に参じる
6.10( 7.13) 会津応援の柴司、清水産寧坂の明保亭に長州浪士を襲撃で手傷を負わせるも土佐藩士麻田時太郎と判明困惑する
6.11( 7.14) 麻田時太郎、土佐藩邸において切腹する
6.12( 7.15) 麻田の加害者柴司、責任をとって自決する
6.13( 7.16) 柴司の葬儀に土方、井上、武田、河合、浅野ら参列、黒谷へ出向く
6.20( 7.23) 彦五郎宛に手紙を記す
6.21( 7.24) 会津藩から六条西本願寺辺に潜伏の西国浪士多数有りとの情報を得て、本願寺の探索を行う。次の日屯所に戻る
6.24( 7.27) 長州藩兵の上洛に備えて竹田街道に出陣する
6.27( 7.30) 鴨川九条河原に出陣
7. 2( 8. 3) 探索方川島勝司、嵯峨天龍寺の長州藩陣地を偵察。歳三、 彦五郎宛に手紙を記す
7. 8( 8. 9) 長州の捕虜から長州情勢を入手、守護職へ報告す
7.11( 8.12) 佐久間象山三条小橋辺で肥後の河上彦斉に殺害される
7.13( 8.14) 池田屋惣兵衛、六角牢で獄死
7.16( 8.17) 佐久間象山息恪次郎、会津藩山本覚馬の紹介により仇討ちのため新選組食客となる。名を三浦啓之助と改める
7.18( 8.19) 蛤御門の戦いに新選組出陣.銭取橋を守備する.。後刻、天龍寺へ廻戦する。蛤御門にて長州久坂ら自刃す 。19日?
7.20( 8.21) 山崎天王山に屯集する真木和泉追捕に向かい、伏見に泊す
7.21( 8.22) 伏見を出立して橋本から船で渡り天王山を目指す。真木和泉ら17士天王山山頂においてそれぞれ自刃す。新選組、橋本まで引き上げる。一部は大坂警護のため枚方より下坂
7.22( 8.23) 大坂の長州屋敷を焼き打ち。翌日壬生に帰る。安藤早太郎、月末には新田革左衛門(池田屋手負)死す
8. 4( 9. 4) 池田屋事変の戦功によって幕府より恩賞を受ける
8.15( 9.15) 会津並びに新選組の武功に対し、幕府より賞状下さる
8.19( 9.19) 小島鹿之助、橋本本家、橋本分家宛に手紙を記す
9.初  日付不祥ながら(4日か?)近藤勇、永倉、尾形、武田の四人東帰。彼らに先立って藤堂、江戸において伊東甲子太郎を新選組に勧誘、勇らは老中訪問して長州討征将軍の上洛運動を懇願、その間御典医松本良順を訪問、更に隊士の募集をする。歳三が局長代理
9. 6(10. 6) 葛山武八郎を切腹させる
9. 9(10. 9) 近藤ら江戸着
9.16(10.16) 勝海舟宛に手紙を記す
10.初  この頃壬生墓地に芹沢らの立派な墓を建てる
10. 5(11. 4) 池田屋騒動に参戦した篠塚峰三、旧主からの申し入れによって離隊
10. 7(11. 6) 勇留守の壬生屯所に多摩から上洛した入隊希望の松本(木)元太郎と小林重太郎の二人に土方歳三困惑の態、丁重に断る
10. 9(11. 8) 勇、彦五郎宛手紙を記す
10.11(11.10) 近藤、神田和泉橋医学所に松本良順を訪問
10.14(11.13) 近藤、松本良順を再訪
10.15(11.14) 近藤ら新入隊士(伊東ら)を募って上洛(江戸出発)
10.27(11.26) 近藤、伊東らを伴い京都に戻る
11. 1  歳三、武州に愛用の鉄扇を送る
11.17(12.15) 蛤御門の戦いにより、幕府から戦功論賞を受ける
12. 1  甲子太郎ら、京都着
12. 2(12.30) 新選組、瀬田へ出張
12.  新選組行軍録作成
12.  日付不祥ながら大坂鴻池等22人から6600貫の銀(71000両)余りを借り受ける

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