- 天保13年(1842)〜慶応4年(1868)5月30日/26歳
- (生年は、天保15年説もある)
- 武蔵国江戸(東京都)出身
- 天然理心流
- 陸奥白河藩士沖田勝次郎の長男として生まれたが、8才くらいの時に、近藤道場・試衛館に内弟子として預けられた。剣技は天才的で、十代のうちに免許皆伝に達し、文久元年(1861)には塾頭になっている。
- 近藤をあくまでも慕い、京都では新選組の一番隊を率いて活躍したが、労咳(結核)を患い、若くして死んだ。池田屋事件の際に喀血したと言われるが、はっきりしない。
- 慶応3年(1867)の終わり頃には病状が悪化し、新選組が江戸に引き上げた後は、一人隠れるようにして療養生活に入った。場所は、千駄ヶ谷の植木屋の離れとも、新選組と親交のあった幕府御典医松本良順邸の中とも言われる。
- 一月前の近藤の処刑を知らされぬまま、総司は5月30日、一人で逝った。
◆総司あれこれ◆
- 名は「そうし」ではなく「そうじ」と読むのが正しい。最近は「そうし」と呼ばれることが多いようだが、これは完全な間違いである。
昔作られた新選組の映画で、総司役を演じた役者さんの名前が「順司」でこちらは「じゅんし」と読む。この響きをそのまま総司にも当てはめようと、当時のスタッフが思いついたのが「そうし」と言われるようになったきっかけ。したがって、本物の総司は「そうじ」。- 幼い頃に両親を亡くし姉を慕って育ったと言われる。
- よく小説などで歳三と沖田が兄弟のように仲がよいと書かれているが、あれは司馬氏自身が語り残しておられるように、完全なる虚構である。歳三と沖田が、小説に書かれているように親しかったという事実は、一切ない。むしろ二人の関係はクールだったように思える。関連記事「沖田と歳三」
- 文久2年7月頃、試衛館に勇の養女分の娘がいて、道場の洗濯や掃除などを手伝っていた。名前も年齢も不詳だが、男勝りの性格だったらしい。
沖田に想いを寄せていた彼女は、ある日思い切って告白をしたのだが、「私はまだ修行中の身ですから」と沖田に断られた。断られた娘は、短刀で喉を突いて自害しようとしたが、急所を外れたため命を取り留め、のち、勇の世話で他家に嫁に行ったという。
他、京都時代の女性関係など、『新選組事件簿』にも情報があります。
- 子供好きだったのは有名。京都でも、隊務の合間に近隣の子供達とよく遊んでいたという。
- 愛刀は、加州金沢住長兵衛藤原清光(乞食清光)。小説にある「菊一文字」は当時でも国宝級だったはずだし、へっていて、使いものにならなかったはずである。沖田が所持していた可能性は100%と言って良いほどあり得ない。
- 沖田直筆の年賀状、書状の画像は、『新選組宝物館』にあります。