天保5年(1834)10月9日〜慶応4年(1868)4月25日/33歳
- 武蔵国多摩郡上石原村(東京都調布市)出身
- 天然理心流
- 農家・宮川久次郎の三男として生まれたが、天然理心流三代目近藤周斎にその人柄と腕を見込まれて、養子に望まれたのが15歳の時。以来、江戸小石川の道場「試衛館」にて剣を学び、やがては若先生として剣を教える立場になっていった。
- 文久元年(1861)8月、26歳の時に天然理心流四代目を襲名、名実ともに理心流宗家を継いだ。
- 文久3年(1863)2月、28歳の時に試衛館一党で浪士隊に応募、京に上り清河八郎と分裂した後、会津藩の元で新選組を結成。局長を勤める。
- 慶応4年下総流山で、新政府軍に投降。板橋にて斬首。墓は三鷹市竜源寺、他。
◆勇先生あれこれ◆
- 幼名・勝五郎、勝太。 字・東州、外史。 変名・近藤内蔵助、近田勇平(確認中)、大久保大和、ほか。
- 名は「いさむ」ではなく「いさみ」と読むのが正しい。
- 家族は父・久次郎、母・みよ、長兄・音次郎、次兄・久米次郎(久米蔵)。姉がいたようだが、幼くして死んだらしい。母も、勝太が4〜5歳の頃に亡くなっている。
- 少年の頃は大層な悪ガキだったようだが、年下の子は絶対にいじめなかったらしい。
- 軍書好きの父にいろいろな本を読んでもらって育った。中でも「三国志」の関羽が好きで、父の膝に抱かれながら「関羽はまだ生きているの」と何度も尋ねたという。
- 15歳の頃。父の留守に家に強盗が押し入った。日頃の剣術の腕を試さんと飛びだそうとした兄を勝太はこう言って止めたという。
「賊は、入ったばかりのときは気が立っているものです。むしろ立ち去るときの方が気が緩み、心が留守になるから、その隙に乗じましょう」
案の定、賊がめぼしいものをひとまとめにして逃げ出すときに、勝太は兄と共に飛び出した。不意を付かれた賊は、まとめた盗品を投げ捨てて逃げたという。それを深追いしようとした兄に、勝太は「窮鼠猫を噛むということがあります。盗られたものは戻ったのだし、放っておきましょう」と言った。
このことが世間に渡って評判となり、剣の師匠の周斎に養子を望まれるきっかけになった。
- いかつい顔の人ではあったが、笑うと両頬にエクボが出来て、いかにももの優しげであったという。
- 愛刀は長曾祢興里虎徹、二尺三寸五分。贋物と言われているが・・・・。
他に、陸奥三善長道、播州藤原宗貞、三善道長など。詳細は『新選組豆知識』にあります。
- 切られた首は、京都三条河原に晒されたが、その後の行方は不明ということになっているが、現在、場所は特定されつつある(非公開事項)。
胴体の埋められているところは諸説あるが、三鷹の竜源寺か現板橋駅前の慰霊碑のところか、どちらかの可能性が強い。