安政末年(1858)四月
宮川音五郎(勇先生の実兄)宛漸々薄暑之砌御座候得共、愈御壮栄被成御座奉賀候。然者過日者御祝詞候而段々思召ニあすかり、万々忝奉存候。
偖先頃総司ヲ以分家江金談之無心申入処、折悪しく御用立ニも不相成、酷迷惑仕候。無余儀少々ツゝ所々ニおゐて融通ハ罷在候処、さて旧年来引連暮太物入等相嵩、甚難渋場合、且此度之金子者亦格別之事ゆへ、併只今迄親類共等之世話ニ相成候事ハ更ニ覚無之、今度始メ而無心仕候処相断りニ相成、最早親類共者当ニいたし候心得更に無御座候。
右ニ付着類差遣し候間、金拾両拝借仕度、尤拾両ニ者品物不足ニ御座候哉いつれとも任慮可然様奉希候。何レ廿四五日之内ニ者総司郎差遣候間、夫迄之内ニ御用立之程只管奉相願候。得貴顔万々御咄可申上。
早々不備四月十九日 近藤勇拝
宮川音五郎殿
尚々時候相参御厭被成候様奉存候。拙者義罷出御咄旁相願可申、其後用事種々出来候間、無余儀総司ヲ以申上候。万端宜御察之程奉希候。恐惶謹言。
ようよう薄暑の砌に御座候えども、いよいよ御壮栄に御座なられ賀し奉り候。しからば過日は御祝詞候て段々思し召しに預かり、万々かたじけなく存じ奉り候。
さて先頃、総司をもって分家へ金談の無心申し入れしところ、折悪しく御用立にも相ならず、酷く迷惑仕り候。余儀なく少々づつ、所々ニおいて融通は罷りあり候ところ、さて旧年来引き連れ暮れ、太物入り等相かさみ、甚だ難渋の場合、かつ此の度の金子はまた格別の事ゆえ、併せて只今迄親類ども等の世話に相なり候事は更に覚えこれ無く、今度始めて無心仕り候ところ相断りに相なり、もはや親類どもは当てにいたし候心得更に御座無く候。 右に付き着類差し遣し候間、金拾両拝借仕りたく、もっとも拾両には品物不足に御座候や、いずれとも慮に任せ、しかるべき様願い奉り候。いずれ二十四、五日の内には総司郎差し遣し候間、それ迄の内に御用立の程、ひたすら相願い奉り候。貴顔を得、万々御はなし申し上ぐべし。
早々不備四月十九日 近藤勇拝
宮川音五郎殿尚々
時候相参り、御厭いなられ候様存じ奉り候。拙者義罷り出で、御はなしかたがた相願い申すべし。其の後用事種々出来候間、余儀なく総司をもって申し上げ候。万端よろしく御察しの程願い奉り候。恐惶謹言。
この時点では、勇は試衛館の若先生状態で、まだ正式に天然理心流道場は継いではいない。
が、前年来物入りが続いて借金がかさみ、これに窮した勇が実兄の音五郎に借金の申し込みをしているのが、この手紙である。
この前に、分家の宮川家にも総司を使いに出して借金を依頼したが、断られ、「今まで、(お金を)貸してくれなどと一度も言ったことはなく、今回初めて頼んだのに、断るとはあまりなことだ。もうアテにはしない」と親類に腹を立てつつ、今度は実兄の音五郎に、「着物を担保にするから十両貸してくれ」と言っている(笑)
更に「着物の価値が十両以下でも、何とか都合して欲しい」と実兄に対しての気安さで勝手なことを言っている。
しかも、今度の遣いも総司である(笑)この時総司は、13才くらいだっただろうから、難儀なものだと思う(笑)
なんだか、貧乏道場で苦労しつつも、素直で微笑ましい、試衛館の日々が伝わってくるようである。
安政末年(1858)十二月
土方歳三宛甚寒之砌り御座候得共、弥御清昌奉賀候。然は過日は昇□□御世話に相成万之所奉□。偖今日は、日野宿におゐて稽古納仕候間、御差繰御出張被下度、尤御連中江貴君より可然様被達仰度願上候。乍併追々月迫およひ候間、各御警勤奉察候。先は皆々様江可然様御鶴声可賜候。草々不備
極月十五日 近藤勇
土方歳三様
甚寒の砌りに御座候えども、いよいよ御清昌賀し奉り候。しからば過日は昇□□御世話に相なり万の所□奉り、さて今日は、日野宿において稽古納め仕り候間、御差し繰り御出張下されたし。もっとも御連中へ貴君よりしかるべき様仰せ達されたく願い上げ候。あわせながら追々月迫におよび候間、おのおの御警勤察し奉り候。まずは皆々様へしかるべき様御鶴声賜るべく候。草々不備
極月十五日 近藤勇
土方歳三様
勇先生24才頃のもの。
今の段階では、現存する唯一の勇先生から歳三への手紙。
「日野宿」つまり、歳三の姉の嫁ぎ先である佐藤彦五郎の道場で、この日行われる稽古納めに、歳三の参加を呼びかけたもの。
封筒の表には「日野宿にて、近藤勇拝」とあり、すぐ近くにいるはずの歳三の到着を待ちかねている様子が伺えます。
後の新選組局長から副長に宛てた、貴重な(?)手紙(^^)
文久三年(1863)五月
小島鹿之助他郷里の人々十八人連名文久三年(1863)六月
小島鹿之助宛て元治元年(1864)五月
中島次郎兵衛宛て(本文略)
尚々、御家内中様御尊父始メ御勇猛之至奉恐賀候。陳者尊兄健次郎様事市ヶ谷辺江御縁談之由、恐悦至極奉存候。
次ニ下拙義も素□愚魯身不顧尽忠報国有志御募リ相成、然馬合之局中ヲ預リ、州鄙客申述頻ニ心配致ゆへ□哉意外多病相成、依而去二月肥後守殿□なるへく温泉致候様、依之罷越候処僅七八日ニ而俄ニ 肥後守殿御役替ニ付飛脚到来、其夜五十丁十六里帰京致候。
併相応度候哉当節大丈夫ニ相成候間、御懸念可被下候間敷、且乍憚一統様暫時処公然様奉願上候。
一、扨先年府中宿おいて御同様始楼登リ、妄戯仕事時々思ひ出申候。就而者当節婦人戯候事聊無之。局中頻ニ男色流行仕候。尚帰府之上申上度。以上
(本文略)
尚々、御家内中様、御尊父はじめ御勇猛の至り、恐賀奉り候。のぶれば尊兄健次郎様事市ヶ谷辺へ御縁談の由、恐悦至極に存じ奉り候。
次に下拙義も、もとより愚魯の身を顧ず、尽忠報国の有志を御募り相なり、しかる馬合の局中を預り、州鄙び、客申し述べ、しきりに心配致しゆへよりや、意外に多病に相なり、よって去る二月、肥後守殿よりなるべく温泉致し候様、これにより罷り越し候ところ、僅か七、八日にて俄に 肥後守殿御役替えに付飛脚到来、其の夜五十丁十六里を帰京致し候。 あわせて相応じたく候や当節大丈夫に相なり候間、御懸念下さるべく候まじく、かつ、憚りながら一統様、暫時のところ公にしか様に、願い上げ奉り候。
一、さて、先年府中宿おいて御同様はじめ、楼に登り、妄戯仕る事時々思い出し申し候。ついては、当節婦人と戯れ候事いささかもこれ無し。局中しきりに男色流行仕り候。なお帰府の上、申し上げたし。以上
本文では、新選組の立場とその役目について失望し、組の解散も考えたのだが、慰留されたことなどを、書いている。
そして、この追伸部分では、中島家の慶事を祝うほか、激務のため体調を壊し、容保に勧められて温泉治療に出掛けたものの、一週間程で容保が「役替え」との連絡が入り、病身に鞭打って、帰京したことが書かれている。
そして、かつて、府中の妓楼で、みんなで「妄戯」に耽ったことを懐かしく思い出し、最近は、女と遊ぶことなどまったく無く、新選組の中では、しきりに男色が流行していることを伝えている。