明治から大正にかけて、五稜郭では何度か発掘が行われ、遺骨が発見されている。
真偽のほどはともかく、当時の記録を忠実に(現代語に直して)ここに書き留めておく。
- 明治14年8月
- さる明治二年に箱館にて戦死した旧幕臣、中島三郎助父子、伊庭八郎、甲賀源吾、土方歳三、古谷作左衛門の諸氏始め、戦死者の遺骸は、称名寺に三名、実行寺に九十四名、浄玄寺に百七名、願乗寺に五十四名と、それぞれ皆、埋葬されているが、今度、称名寺、実行寺、乗玄寺の三寺は、悉く他へ移転するにあたり、宮路助三郎氏が自費で、この三寺にある墓碑を他に移すことになった。
その作業のため、埋葬されている遺骸を掘ったところ、遺体が纏っていたフランネル、ブランケットの襦袢など、毛織りのものはすべて、元の形を保っていた。
- 明治16年10月
- 追悼供養会
- 明治11年に、東京京橋の堀江善兵衛という人が、五稜郭土塁の破損個所修繕の請負を命じられ、事業に着手したが、その時、土中より戊申の役で戦死した人の遺骸が夥しく発見された。
堀江氏は、この遺骸が無縁になるのを悼み、若干の私費でその遺骸を東川町願乗寺境内に移葬し、しるしの石碑を建てておいた。
この度、またこの堀江氏が、亀田分屯所新築の工事を請け負うことになり、今その工事を進めているが、明治11年当時のことを思い出し、あれから数えて今年は七回忌に相当することもあるので、また義金を出して、当時の建てた墓碑を修理し、場所も高等の位置に移しで、移転式供養会を行うことになった。
- 大正15年10月
- 幕軍小隊長の遺骨発見さる 五稜郭公園内で
- 五稜郭戦争で戦没した幕軍小隊長・春日佐右衛門の屍体は、どこに埋められたのか判明しないので困っていたが、最近、大縄町の某老人が北島看守を訪問して、春日佐右衛門氏の遺骨は郭内の三号売店側に埋めたと言って、その場所で涕泣したことがあった。
そこでこの度、北島看守は、人夫を使って桜の木を植え替える際、その場所を掘ってみたところ、骨三個が発見されたので、老人の言葉通り、同氏(春日)の遺骨だろうと推定され、調査にあたることになった。
大正15年10月「箱館毎日新聞」より- 大正15年10月
- 五稜郭で発見した白骨は誰?
四名とも洋服姿。バンドの一部には菊花の御紋章- 五稜郭公園内で、先日、北方の第三号売店の南寄裏手の桜の木を移植中、箱館戦争当時の戦死者と見られる白骨化した、洋服姿の死者二名が現れ、更に続いて翌朝に一名分が、同日夕方にもまた一名分の遺骨が発見された。(全部で四体)。
- 三体目の分は、北を背に立て膝をして入っていた。
- また、最後の四人目のものは、仰臥して先に発見された三個のものより遙かに完全なものであり、頭部に数十個の銃弾が貫通していた。
- 掘り出された白骨と共に、着ていた服地がボロボロになって現れ、当時の将校であることは、剣を吊ったバンドの一部に、約一分程の菊花御紋章が付いていた。
- 箱館戦争の戦死者には間違いないが、これが誰なのかは、わからない。