- ★和泉守兼定(大)
- 慶応三年二月の裏年記のある二尺二寸八分の、歳三の佩刀中、一番有名なもの。日野に現存している。
柄は白鮫着せ黒糸巻き、滑り止めの為に漆が塗ってある。菱の数が18半と、小さくて細かいのは、幕末流行りの傾向。梅が好きだった彼らしく鉄地木瓜形の板鍔には梅の花が一輪彫られている。鞘は茶の石目塗りに牡丹唐草と鳳凰の文様を抜き出し、縁頭・栗形・小尻は、鉄地無文と、いかにも武用専一という感じ。ただ、目貫だけは少し洒落ていて、美濃風の枝山椒図が使われている。
よく、歳三の兼定は二代(通称之定)という人がいるが、彼が所持していたのは会津御抱鍛冶十一代の兼定である。(それでも大変いい刀工です)。この兼定の弟子が記録した現存する刀剣注文帳には、「和泉守兼定刀三本 新選組」などと記されていて、新選組全体で、この兼定を重宝していたらしいことがわかる。
元治元年、勇先生が佐藤彦五郎に宛てた手紙の中に、「土方氏モ無事罷在候、殊ニ刀ハ和泉守兼定二尺八寸、脇差一尺九寸五分堀川国広云々……」とあることから、寸違いの兼定を数振り所持していたと思われる。
前述の源竜斎のメモによると、「二尺四寸八分 十一代兼定ナリ」。
- ★堀川国広(小)
- 前述の勇先生の手紙によると、歳三は、一尺九寸五分の堀川国広を所持していたとのことだが、私が知り合いの刀屋に聞いたところ、まず、堀川国広は、当時でもかなり高い刀で300石の大名でも持たないものらしい。せいぜい500石クラスの大名なら持てるとのことであった。
そして、ちょっとショックだったのが、堀川国広は、二尺以下の刀は打っていない、ということ。歳三の脇差が本当に一尺九寸五分だったとしたら、100%贋物ということになるんだそうである。
源竜斎のメモによると、「堀川国広 一尺八寸」とある。
- ★葵紋越前康継(大)
- 背負太刀作りで二尺三寸五分。鞘に青糸の下緒が巻いてある。この下緒は、歳三が、会津落城後に仙台に入り、伊達候に面談の折り、候自ら佩刀の下緒を解いて来訪の労いに、歳三に与えられたものである。
伝承によると、会津候からの拝領刀で、これも現存している。
官軍が江戸を占領した頃、歳三の親族である佐藤家にも危害が及び、前述の俊宣も一度は逮捕され、その際、刀を取り上げられた。それを聞いた歳三が、可哀想に、とこの一振りを与えたそうである。
中心には、次の通り、きってある。
表銘:以南蛮鉄於武州江戸越前康継
裏銘:安政六年六月十一日於伝馬町雁金土壇払 山田佐吉試之
同年十一月廿三日於千住太々土壇払 山田吉豊試之参考までに。
土壇払というのは、刀の切れ味を試すために首を落とされた罪人の身体を土で作った台(これを土壇場と言う)の上に備え、それを切り下ろしてみることである。
死体を二つ重ねたり、肩や腰を斬るなど、いろいろな斬り方がある。ちなみに、あの山田朝右衛門が、試し切りをしたという銘をきった刀が、我が家にある。
- ★大和守秀国(大)
- 岡山県倉敷に秘蔵。銘には、「幕府侍土方義豊戦刀、秋月種明懇望帯之、秋月君譲請高橋忠守帯之」とある。これと同じ「慶応二年八月」の裏銘のある秀国が、現在日野市に三振りあって、これは勇先生が日野に土産として持参したもの。新選組金銭出納帳の慶応三年十一月二十六日の項に「一金拾六両二分大和守刀身三本」とあるので、歳三の秀国も同じ頃に入手したものかもしれない。
- ★用恵国包(小)