★長曾祢虎徹(大小)
勇先生の虎徹は、真贋いろいろな説がありますが、有名な説をあげてみると、
- 勇先生が江戸にいた頃、刀屋が、名刀源清麿を、偽物作りで有名な鍛冶平こと細田直光に手を加えさせて、偽銘を刻み、売りつけたという説。
- 斎藤一に譲って貰ったという説。これについては斎藤自身が、日野の佐藤彦五郎(歳三の姉婿、勇や歳三の面倒をよくみていた)の息、佐藤俊宣に語ったという談話が残っている。それによると、『小石川の近藤先生の道場(試衛館)に遊んでいた頃、私が四谷のある小道具屋から買った刀で、先生が大層気に入ったようであったから進上した。無銘であったが虎徹に似ていると、愛玩された』という。
- 京都時代、将軍家から拝領されたという説
- 京都時代、大坂の豪商鴻池の京都別邸に賊が入り、それを取り押さえた際に、謝礼としてもらったという説。
元治元年10月、勇先生が江戸に帰り隊士募集を行ったとき、八王子千人同心で蘭方医でもある秋山義方が勇先生に面会し、刀剣談をかわした。その時池田屋の話も出て、「これがあの虎徹だよ」と見せてくれたという。秋山はこの虎徹に感心し、二つの漢詩を作って勇先生に贈っている。
これは現存しているが、この中に「二百五十年間大平ニ過ギ宝刀筺ニ在リ未ダ使ハレズ。コノ宝刀(虎徹)ハ永キ間富商(鴻池のことと思われる)ノ庫ニ秘蔵サレル(略)雄剣(大刀)長大マサニ百練サレ、雌剣(小刀)稍小ヨク研カレ コレ虎徹ノ打ツタ雄雌(大小)ノ刀ナリ……」とある。とすると、勇先生は大小数振りの虎徹を持っていたということになる。
また、勇先生が甲陽鎮撫隊として、慶応4年三月に日野に寄った際、前述の佐藤彦五郎に「これが鴻池より貰い受けた虎徹だが、あの池田や乱刃の終わったとき、あれだけ打ち合ったのに鞘がするすると入り、少しの狂いもなかった。無銘ではあるが、どうしても虎徹に違いありませんなぁ」と自慢げに話していたという。
ただ、無銘の虎徹というのは、ちょっと考えられないそうで、うーん。池田屋事件の後、隊士達の刀の研ぎや修理をした研師の源竜斎俊永のメモによると、勇先生池田屋で使ったのは、二尺三寸五分の虎徹。「出来上だダガ偽物ナリ」とある。
- ★陸奥大掾三善長道(大刀)
- 元治元年の池田屋事件の褒美として、京都守護職会津候から拝領された刀。「会津虎徹」と称されるほどの斬れ味の素晴らしい最上大業物。
斬れ味の良い刀は、更に四段階で評価されて、一番上から「最上大業物」「大業物」「良業物」「業物」となる。この三善長道は最高位。今でもいいものだと一千万円はする。
反りは若干少な目(あまり曲がっていないと言うこと)で、地鉄は柾目がかった板目(すごく丈夫)、刃文は乱れ互ノ目(虎徹もそう)、帽子(刀の切っ先の中の刃文)の作りも虎徹風。野趣のある立派な名刀。さすがは、局長。
- ★播州藤原宗貞(大刀)
- 甲州行きの際所持していたもので、老中板倉周防守から拝領した刀。
- ★三善道長(大刀)
- 幕末新々刀で、勇先生が会津の山本覚馬に依頼した刀。慶応三年十一月十五日に、山本は同じ会津藩士永田権之助・清治親子と共に、七条木津屋橋の勇先生の妾宅にこれを持参した。
参考までに。
勇先生の写真に写っている差料は、上記のどれかはわからないが、腰に差している脇差も共に、白鮫着せ糸巻柄の尋常な拵。刀鍔はかなり大きめで、丸形の格子透かしになっている。