★隊規(局中法度)★


現在、知られているいわゆる「局中法度」は以下のものである。

一、士道に背キ間敷事
一、局ヲ脱スルヲ不許
一、勝手ニ金策致不可
一、勝手ニ訴訟取扱不可
一、私ノ闘争ヲ不許
右条々相ヒ背候者ハ切腹申シ付クベク候也。

これは、子母澤寛先生の創作の可能性が高い。(ちなみにあの名著「新選組始末記」は、「実録史」ではなく「小説」である)
「創作」というのは、あくまでも推測に過ぎない。が、記録としてこの法度がどこにも残っていないというのも事実なのである。
敢えて残っていると言えば、永倉新八が書いたとされる「新選組顛末記」。
ここに、新選組の規律としてこのように書かれている。
『第一士道に背くこと、第二局を脱すること、第三かってに金策いたすこと、第四かってに訴訟を取り扱うこと、この四箇条をそむくときは切腹をもうしつくること。また、この宣告は同志の面前で申し渡すというのであった』

規律に関する記録は、これのみである。
したがって「局中法度」や「五箇条」というものは、(現段階では)、実際に存在してはいないのである。








































★隊服★


有名なのは、あさぎ色で袖と裾に山型の模様がある、いわゆる「ダンダラ」ものだが、これは新選組初期の頃、主立った隊士のみが着用していたようで、隊士全員が所持していたわけではないらしい。
しかも、勇・歳三らは、まったく着なかったというから、あまりいいものではなかったのでしょう(笑)
ちなみに、池田屋の頃を最後にダンダラの羽織は目撃されていない。
その後は、「黒衣黒袴」、つまり黒づくめの装束を着用していた隊士も多かったらしい。

歳三などはきっと、当時流行の黒縮緬か羽二重の羽織に、仙台平の袴あたりを愛用していたことだろう。(愛するが故の勝手な憶測(笑))

















































★「選」と「撰」★


「新選組」と「新撰組」どちらが本当だろうか。
結論から言えば、「新選組」が本来のもの、と言える。

もっとも、「新撰組」が間違いだ、とも言えない。
当時は、音(おん)さえ合っていれば、漢字は当て字でも十分通用した。例えば、総司は自分の名前を「総二」などと書いている。

「新選組」という字を、実際、歳三らも「新撰組」と書いていることがある。
文書などを調べてみると、新選組から会津藩に出されるものは「新撰組」と書かれたものが多く、逆に会津藩から新選組に出されたものは「新選組」となっているものが多い。
もっともこれは、文書を書いた人間の、それこそ癖なのかも知れない。

では、何故「新選組」か。
まず「新撰組」では意味が成立しない。これが一つ。
更に、当時の資料から検証するに、当て字でも構わない程度のもの(資料)を見ていては判断はできない。判断するならあくまでも、当て字では済まないもの、各自の癖や好みではなく、本来の名前を示さなくてはいけない、というもので検証する必要がある。

例えば、印鑑。
例えば、表札。

実は、これは共に「新選組」となっているのである。
印鑑は印影がそのまま残っているので、見ればわかる。
表札については、大正時代まで現存していた。檜の表札で、間違いなく「新選組」だったという。
以上のことから、本来の正式な名前は「新選組」、ただし「新撰組」と書いても間違いではない、ということになる。

先日、ある講演で『永倉は「撰」と書いていた。だから、「撰」が正しい!』と、言われているのを聞いて、憮然とした。この方は、新選組研究家ではないので、他の事情はご存じないのだろう。
「撰」でも「選」でもいいが、少なくとも『「撰」が正しい』ということは絶対にない。
ちなみに、現代に置いて、新聞などでは「新撰組」と表示されることが多いが、新選組識者の殆どは「新選組」と書いている。