★隊旗★



縦四尺横三尺の大きさで、緋羅紗に『誠』の一字を白く染め抜いてあった。
他に、六尺四方のもの、誠の文字が金糸で刺繍されていたもの、「誠忠」の二字が入っていたもの、山型の模様がないもの、などがあったらしい。
他に、隊の提灯や、袖章(五稜郭の博物館に現存)などもある。


































★隊士数★


・文久三年三月……13人(24人という説も)
・元治元年六月(池田屋事件の頃)……83人
・一番多かった時……170〜180人
・鳥羽伏見直前……66人


































★隊士の出身★


延べ302人のうち106人が判明
・武士87人(脱藩者37人、浪人50人)
・農民 8人
・商人 3人
・医者 3人
・僧侶 3人
・職人 2人>






































★給料手当★


一ヶ月の手当。局長50両、副長40両、助勤30両、平隊士10両。
一両二分あれば、親子5人が寝酒の一合を呑んで楽に暮らせた。









































★予算★


慶応年間頃。一年の予算として、幕府から1万5千両くだされた。
他に、鴻池などの豪商21人から、7万1千両等、現在の貨幣で言うと約20億円。












































★死亡★


・局中法度違反で死んだ者……18人(切腹10人、断首8人)
・間者……………5人
・不義密通………3人
・脱走……………3人
・隊務の怠り……2人
・金のトラブル…2人
・乱暴……………1人
・女性問題………1人
・不明……………7人  他












































★屯所と隊士の一日★


屯所として、一番長く続いたのは前川邸。12部屋、総畳数146畳。
初期のこの頃は、隊士は雑魚寝。勇や歳三たちも、奥の部屋で雑魚寝していた。
朝起きると、布団をたたんで部屋の隅に積み上げ、掃除にとりかかり、終わると朝稽古を済ませてから朝食。そのあと勤務割りがあった。
市中を巡回するときは2隊(1小隊12人)で組んで歩いた。
慶応年間の頃は、不動堂村に大名屋敷のような屯所を建てた。
高塀に囲まれ、表門から中に入ると玄関、長屋、使者の間があり、長廊下の両側には隊士達の部屋が連なって、その奥には幹部の居間や客間、更に厩、物見部屋、中間や小者部屋があった。
風呂は30人も一度に入れるほどに大きく、台所は寺の厨房のようで、広い道場もあった。
勇の居間は二間、床の間付きの12畳と次の間は六畳、組長以上の幹部は個室を持ち、歳三や伊藤は八畳、他は六畳くらいだったと言う。




































★稽古★


近藤局長は、隊士の剣術の稽古を高いところから見物。いつも汗だくになって稽古をつけるのは、副長の歳三だった。