- 文政11年(1828)1月15日〜明治33年(1900)3月20日/72才
- 美濃国方県郡雄総村(岐阜県大垣市)出身
- 心形刀流
- 美濃大垣藩近藤伊右衛門の子として生まれた。伊右衛門は、木曽川奉行の任にあったが、木曽川の氾濫により御用材木を流失した責任をとって、自刃した。
- 魁は、叔母の嫁ぎ先や母の実家を転々とし、やがて江戸に出て永倉と知り合い、更に京に行って丹波屋の入り婿になるが、その後、大垣藩島田家を継ぐ。
- 新選組草創期に入隊し、隊随一の巨漢だったという。
- 新選組崩壊後は、歳三と共に箱館に行き、歳三の死を看取ったとも言われているが、実は弁天台場にいて、歳三の死を聞いたらしい。
- 晩年は、京都西本願寺で守衛を勤めた。西本願寺といえば、新選組が一時屯所としていたところである。そんな思い出のたくさん詰まった場所で、彼は何を思いながら生涯を過ごしたのだろう。そのまま、西本願寺の境内で亡くなった。
◆魁さんあれこれ◆
- 魁は、新選組当時は「カイ」と読んだらしいが、後裔の方の話によると、晩年は「サキガケ」と読んだという。
- 永倉とは同じ江戸の坪内主馬道場(心形刀流)の出身と言うこともあり、息の合った仲だった。
- 西本願寺の守衛時代、彼は歳三の戒名を肌身離さず持っていたという。
- 甘い物が大好きで、とくに汁粉は鍋一杯作って食べた。しかも、砂糖は、糸を引くくらい大量に入れるのが好きだったという(^^;)
- 晩年のエピソードとしてこういうのがある。
新政府に出仕していた榎本が、京都に来た時、島田のところに使いをやって、「久しぶりに会いたい。ご足労だが、宿までおこし願いたい」と言ってきた。 榎本にしてみれば、箱館戦争時の戦友である島田と、懐かしく昔語りをしようという軽い気持ちで誘ったにすぎないのだろう。が、旧敵である新政府の高官におさまっている榎本を、島田はどうしても許せなかったのだろう。榎本の申し出をこう、きっぱりと断った。
「会いたいのなら、先方から出向くのが礼儀。こちらから出向く必要はない」
歳三の戒名を懐に、こう言ってくれた島田を、私は有り難く思うと共に、尊敬するのである。