★山南敬介藤原知信<総長>



天保4年(1833)〜元治2年(1865)2月23日/32才
陸奥国仙台(宮城県)出身
北辰一刀流、天然理心流

神田お玉が池の千葉道場で学ぶ。ある日、試衛館を訪れて近藤勇と手合わせしたところ、あえなく負けてしまったという。勇の人柄にも何かを感じたのか、その後改めて天然理心流に入門し、勇の弟子になった。
2年ほど後の文久3年(1863)正月には、もうすっかり理心流の人間になっていて、沖田と共に多摩へ出稽古にも出ている。
やがて試衛館一党と共に山南も志を持って、京に上る。
新選組では総長職を勤めたが、次第に彼は孤立感を感じていったらしい。局長の勇と副長の歳三の間の地位にありながら、二人の間に入っていけないことや、同じ勤王でも佐幕の先鋒という新選組の考え方に疑問を感じていたようだ。
池田屋事件の少し前頃から、健康を害し、病に伏せていた。当然池田屋事件には参加せず、留守番だった。体調が思わしくないことや精神的な鬱々から、ややノイローゼ気味になっていたのかもしれない。
翌元治2年2月、彼は隊を脱走するが、大津で捕らえられる。
置き手紙に行き先(大津)を書いた上で脱走したとも言う。一説には、「局長は土方の言うことばかり聞いて、自分の意見を容れてくれない」(土方の奸媚に迷って云々)とも書いたと言う。この書き方には、近藤と歳三の親密さに対する嫉妬めいた感情が伺えるとの見方が一般的のようだ。
そうだとしたら、この脱走は、隊の中での(あるいは近藤にとっての)自分の重要性を自分で計るための、大きな賭だったのかも知れない。
新選組の隊規では、脱走は切腹。幹部の立場とは言え、例外はない。
沖田総司の介錯で、見事な切腹を遂げた。
幕軍生き残りの集まりの会で出した『同方会誌』によると、山南がいよいよ切腹と言うときに歳三が現れ、山南はその顔を見て「おお、来たか九尾の狐・・・・」と吐き捨てるように言ったが、歳三は一言も発せず、ゆっくりと検死の座についた、との証言が残されている。

◆山南あれこれ◆