- 天保11年(1840)〜慶応4年(1868)5月17日/28歳
- 伊予国松山(愛媛県)出身
- 種田流槍術
- 伊予松山藩の足軽の子として産まれたが、国元で若党を勤めていた頃、ある武士と喧嘩をして、「腹を切る作法も知らぬ下司め」と罵られたのにカッとなり、いきなり裸になって腹を切って見せたという。傷は浅かったので命には別状はなかったが、こういう無茶を平気でやる男だった。
腹に一文字の傷が残ったが、天気の良い日はこの腹を日にさらしながら「てめぇたちのような、ヤワなのとは違うんだ。俺の腹ァ金物の味を知ってるんだぜ」と言っていたという。- 江戸帰還後、永倉らと共に近藤と決別。やがて永倉とも別れ、彰義隊に加わって戦死。
◆左之助あれこれ◆
- 豪放磊落な暴れん坊で、新選組随一と言われた苦み走ったいい男という原田。かなりかっこいい男だったようだ。
- 新選組の面々は、京都で色町の女を囲って休息所を持つものは多かったが、正式な妻を迎えたものは少ない。その中で、原田は気質の娘を正妻に娶っている。意外に家庭的な彼の一面が見える。
- 長州の間者だったとも言われている楠小十郎を後ろから斬り殺して、「あぁ、いい気持ちだ」と言ってエヘエヘ笑っていたために、左之助は、あとで勇に酷く叱られたという話が伝わっている。
- 実は彼は死んでおらず、満州で馬賊になったなどという話もある。