陸奥白河藩士沖田勝次郎の長男として生まれたが、8才くらいの時に、近藤道場・試衛館に内弟子として預けられた。剣技は天才的で、十代のうちに免許皆伝に達し、文久元年(1861)には塾頭になっている。
近藤をあくまでも慕い、京都では新選組の一番隊を率いて活躍したが、労咳(結核)を患い、若くして死んだ。池田屋事件の際に喀血したと言われるが、はっきりしない。
慶応3年(1867)の終わり頃には病状が悪化し、新選組が江戸に引き上げた後は、一人隠れるようにして療養生活に入った。場所は、千駄ヶ谷の植木屋の離れとも、新選組と親交のあった幕府御典医松本良順邸の中とも言われる。
一月前の近藤の処刑を知らされぬまま、総司は5月30日、一人で逝った。
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