★鯉を食う★

文久三年八月十一日。芹沢や歳三らは、壬生新徳寺の池を掘り、魚をすくって食べたという記録がある。
丁度この頃、芹沢は、横暴真っ盛りだったから、こんなこともしでかしたのだろう(笑)
芹沢という人は、ちょっと度が過ぎるところもあるけれど、とても愛嬌のある人だったと私は思うのだ。






















★相撲興行★

文久三年八月七日。現八坂神社境内の北側で、新選組は一週間の相撲興行を行った。
「壬生の浪人多人数集まり、取締致し候。いずれも木綿黒紋付、白□袴を着し、殊のほか行儀よろしく御座候」
この評判がよかったのだろう、数日後の12日。壬生でも相撲興行を打たせている。
これは、芹沢派ではなく近藤派がやったことらしく、このように、人々に優しい新選組をアピールし、穏健にやっている近藤派に対して、芹沢派はかなり面白くなかったらしく、この夜、大和屋を焼き討ち、などの暴挙に出ている。



















★芝居見物★

元治元年十一月、京都南座で富十郎の「忠臣蔵」が上演されているとき、大入り(満員)で中に入れない新選組の若侍三人が、「金ならいくらでも出す」と言いつつ強引に入り、舞台に向かって「大根役者」と罵声を浴びせ、酔いに任せて隣客と喧嘩をし、その客と来ていた勤王芸者中西君尾に文句を付けるなどの騒動を引き起こした。
















★佐久間象山★

屯所に来た象山に、歳三は書を書いて欲しいと頼んでいる。二枚書いて貰った漢詩を、のち故郷に送っている。





















★健康診断★

慶応元年初夏、幕府典医松本良順による新選組隊士の健康診断が行われた。
170数名のうち、70数名が病人だった。中でもワーストスリーは、感冒(風邪)、食傷、梅毒。難患は、心臓肥大と肺結核の二人。
勇先生は「食物不良、為メニ胃ヲ損スル」。薬として「健胃制酸下剤ヲ与フ」。
その時の屯所内の様子を、良順はこう書いている。
「勇ト歳三ト共ニ、屯所ヲ巡リ観ルニ、恰モ梁山泊ニ入ルノ思ヒアリ。或ハ刀剣ヲ磨キ、或ハ鎖衣ヲ繋グ等、甚ダ過激ノ有様ナリ。
総数170〜80名ニシテ、横臥、仰臥、裸体、陰所ヲ露ハスモノ少ナカラズ、其無禮(無礼)言フ迄モナシ、巡リ終リテ旧座ニツキタレバ、勇ヲ詰ルニ『局長ト次長(副長)同行セラルルニ、裸体仰臥セシモノノ多キハ、ソノ長ニ対シ、無礼ナラズヤ』……」
これに対し、勇先生は「病の者が多いのだから、大目に見てやってください」と答えたという。
風邪も含めると、全隊士中1/3が「病気」という状態だったのを見かねた良順が、病室や風呂のことなど、療養のための説明をした。
そして、西洋病院の概略を勇に語って聞かせていた二〜三時間の間に、歳三がやってきて「先生のお話通り、病室を作りました。よろしければご覧頂いて、更にご教示ください」と言ってきたので、良順が、歳三について行ってみると、病室も整い、浴桶を三個用意して浴場もきちんと整備されていた。
その素早い手配に良順が驚き、感心すると、歳三が「兵は拙速を貴ぶとは、このことですな」というので、二人で大笑いしたという。





















★勇と君尾★

祇園一刀で、勇は勤王芸者中西君尾を呼び、こう、口説いたそうだ。(私が現代語訳しました)
「そちに逢うのは初めてだが、そちの噂は聞き知っている。わしは、その噂に惚れた。そちは意気地の強い粋興な女と見た。京の女は美しいがみな人形だ。魂がない。生きていないようだ。だが、そちは違う。
どうだ、三日でいいから、わしのものになってくれぬか。厭なら厭でよい、蛇の生殺しは嫌いだから、綺麗にはっきり言ってくれ。わしも、関東に育った漢じゃ、さっぱりと言ってくれ。吾妻男のこう、打ち明けすぎた話は、気に入らぬか?」
この時、君尾は、勤王派某の女であったのだけれど、この勇の口説きように参ったらしい。箱根以西の人間では、こういう口説き方は出来ない。男らしい勇に、男らしい口説き方をされて、つくづく身に沁むものがあったらしい。『情夫に持つならこんな男!』と思ったのだが、勤王芸者の意地もある。
「近藤様、私などにもったいないお言葉。厭な遠回しの口説きより、私の胸にズンとこたえました。貴方に不足などはあろうはずもないのだけれど、ただ一つ、私に望みがございます。それを叶えてくだされば」
「望みとは?」 「禁裏様の御代にするように、お骨折りくださいませ。そうすれば、私は、貴方に身も心も差し上げましょう」
つまり、君尾は、佐幕派の勇に勤王派(倒幕派)になれ、と言ったのである!
「新選組は、会津候に従うものだ」
「存じております、けれど、近藤様」、と、君尾は勇に勤王派の大義名分を語って聞かせたという(^^;)
もっとも、これで勇が勤王派になってくれれば、これこそ自分にとって生涯一の愛する男になる人だ、と思ったからこそ、君尾は必死に勇を勤王派にしようとしたらしい。
しかし勇が、芸者の言葉でその志を変えるわけがない。また、気に入った女を手に入れるために、一時の嘘をつくような人間でもない。是か非か、火か水か、物事をきっぱり決めるような融通の利かない(笑)男らしく頼もしい男ですから、君尾の言うことをふむふむ、と聞いた挙げ句、
「そちも、つくづく変わった芸者だ。まぁ、そんなところにわしは惚れたのだが、たとえそちの言い分が道理であっても、梓弓武夫(もののふ)の太刀取る道は意地が強い、頼み頼まれたら閻魔王の旗の手について、極楽の菩薩をも斬り殺す。東を向いたら西へは向かぬ。今更近藤は、そちの言葉に従うわけには参らぬ。殊に、芸者風情の言葉に動いたとあっては、世間の評判も面白くない。
そちとは、最早、縁はない。ははははは。君尾、無礼は許せよ」
そう言って、大盃を一気に飲み干したという。
この時、君尾はつくづく辛かったらしい。一層、難しい理屈はよして、こんな男らしい男を情夫に持とうか、こういう男となら、地獄の火の中に追いやられても構わない、むしろ面白いに違いない。勇に完全に惚れてしまったのだけれど、けれど、勤王派である自分の心にどこやら済まぬきもする。
ということで、結局この二人は、後に逢うことはあったけれど、このままの関係で終わったという。
当時、歳三と同じくらいモテた、という勇先生の男らしさが、伝わってくるエピソードである。





















★歳三の小包★

★文久3年(1863)11月
《歳三、女達からもらった恋文を小包にして郷里に送る。》

きーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!
あたしも遊女になりたいーーーーーーーーーーっ!!
(おいおい)
(いや、歳三専用遊女だよう。あ、あと山崎も(笑))

歳三モテモテ状態で、女から山ほどラブレターももらっていた。
で、多摩(郷里)のみんなに「素晴らしく尊きものを送る」つって、これを、小包にして送ったわけ(笑)
こういう時、送られた方の反応で、その人となりがわかるわよね。
『嫌みなヤツ』と思われるか、『相変わらずだなぁ』と微笑まれるか。
歳三は後者だった。ラブレターの山を受け取った人達は、「また、歳さんに一本取られた」とみんなで笑ったという。
歳三が、普段、郷里の人達にいかに愛されていたかがわかる気がする。