左の写真は、駅前にある勇先生の墓所。
『近藤勇宜昌
土方歳三義豊』 とあるが、勇先生の名は「昌宜」が正しい。
この墓碑は、永倉新八が建てたと言われ、彼の碑も側にある。(下の写真)
★勇先生の首は言うに及ばず、胴体もどこにあるのか、実ははっきりしていない。
可能性が高いのは、この板橋駅前の墓所か、三鷹の竜源寺である。この二カ所のどちらかと言って間違いはないだろう。
有名なのは竜源寺だが、この墓所にまつわる話としても、かなりリアルな証言が残っているのだ。★この墓所には、勇先生、歳三、新八だけでなく、多くの隊士の霊をも祀っている。よく、新選組関係の本などで、隊士の墓所を「寿徳寺」と書いたものを見かけると思う。
実を言うと私も、昔、それにひっかかった一人なのである(笑)
私が歳三の次に愛しているのが山崎烝。
彼は大坂で亡くなっているか、(可能性は低いが)和歌山沖に沈んでいるはずである。
彼の「墓」が、東京にあると聞いて不審に思ったものの、愛に目のくらんでいるバカというのは、救いようがない。
暑い夏の日に、寿徳寺を求めてさまよい歩いたことがある。まずは板橋駅前の勇先生あんど歳三の墓に参ってから、いざ寿徳寺(烝の元)へと向かった!
しかし。この寺の場所がまったくもってわかりにくい。本当にわかりにくいのだ(泣)
ハイヒールだったので足は痛み、汗まみれ、化粧なんか溶けたようなすさまじい顔でやっとたどり着き、墓所を探したがない。「山崎家」の墓がないっ!(泣)
住職さんに訪ねてみると、「山崎烝……?」
「し、新選組のですぅ(泣)」
「それならきっと、板橋駅前の近藤勇の墓のところでしょう」
「でも、なかったです。山崎の墓……。彼の墓は、寿徳寺だと……」
「離れていますが、あそこ(板橋駅前の勇先生の墓所)も寿徳寺の敷地なんです。近藤や土方の他に、隊士の霊も祀っています」
ががーーーーーん(泣)
そ、そうだったのか(泣)
じゃあ、「烝の墓」というのがあるわけではなく、烝はあそこに「その他大勢」で祀られているだけだったのかぁぁぁ(泣)
とぼとぼと帰る道、また道がわからない……。いけどもいけども、大通りに出ないのである(泣)(言っておくが、私は決して方向音痴ではない。車で出かけるときは、名ナビゲーターと言われているくらいなのだ)
ということで、墓が「寿徳寺」にあると書かれて(言われて)いる諸隊士を愛する皆様、要注意ですよ(泣)
勇先生最期の場所(泣)
勇先生が首を切られた場所は、この写真の奥の方。
ここは刑場ではなく、馬捨て場でした。
まさにその場所、というべき、住所番地もわかっていますが、いろいろな方面への影響から、公開は控えます。またこの写真で目印になるような看板はわざとボカしてあります。
少し前までは、怖い話も残っていたと言います。
勇先生が亡くなった、その馬捨て場にあった「馬頭観音」。
この背後に、斬られる前日に勇先生の世話をした石山家がありました。